ちょっと月まで。- 栂井春編 斉-

栂井春はTOKYOに向かう飛行機の中、三年前に帰った青森の事を思い出していた。

青く広がる田園に生命の根源を見たし、空にはまだ清浄が残っていた。生家にはもう誰も居なかったが確かに家族が生きた記しがあって、心安らかだった。あとは、、雪。そうあの雪の日。

彼女は元気に暮らしているだろうか、そうだといいな。

甘い記憶の中に溶けて消えてしまいたい衝動に駆られたが、今は思い出に浸っている時ではない。

ある目的の為に今まで準備してきた。それを実行に移す時が来たのだ。

三年前彼がまだ教師をしていた頃に最後のピースが見つかった。

偶然か必然か誰にもわからない事だがこの世界に渦巻く運命を、自分の宿命を信じずにはいられなかった。

今から日本に帰り、その最後のピースである「南方宗介」に会う。

彼は今東京の大学で物理を学んでいる。

あの日交わした約束通り、彼も今日のために準備しているだろう。

一ヶ月後には学界に激震がはしることになる。

そして、予定通り事は運び、人間一個人の身体、記憶、精神など全てを数値化、更に分離する理論、装置を確立しそれを世界に発表した。

この技術が社会にもたらすであろう恩恵は計り知れないが、医療や介護など倫理的問題を多く含むものへの利用はまだ法整備が整っておらず、開発チームの意向もあり、当面は娯楽や学問への利用が主となるだろう。

その後、南方宗介は大学を卒業後そこの研究員として働いている。いまだ自分の能力を公表していないが、周りのレベルが自分に近い為、専門的な話しになった時ふと芯をついた発言をしてしまう事がある。

自分が思っている以上に人は人を見ているもので徐々に周りに人が集まり、他の分野の研究員や海外の専門家からも質問または意見を求められる事が多くなり、次第に界隈では天才だのなんだのと噂されたが、今となってはもう森の中の木の様なもので、周りの才人にうまくカムフラージュされさほど気にする事なく生活していた。

一方、栂井春はこの技術の開発を裏でコントロールし世界に公表した後、誰にも知られる事なく姿を消した。

南方宗介にも行き先は告げなかったが、きっと自らを数値化し肉体を離れデータとなって、この宇宙の何処かを漂っているのだと彼は確信していた。

人は皆いつかこうやって身体という枷を外し精神の波となってやがて意識をも超え、ただの座標となって本当の意味でこの宇宙の一部またそのものになり時空を旅する。

そこには何もないが我々が今望むすべてがあるだろう。